大きな雪の塊がぼと、ぼと、と重そうに落ちてくる。
それなのにコンクリートに触れる瞬間、音もなくそれらはそこに降り積もっていく。
まるで実体のないような軽やかさだ。
水の塊。 雲から耐え切れず落ちてくる千切れた欠片。
しんしんと降り積もっていくぼたん雪を浴びるように、屋上のベンチでただ空を仰ぐ。
必死に瞼をこじ開けて、初めは豆粒のようだった雪がだんだん大きく迫ってくるのをじっと見つめた。
「子供みたいな真似はやめなよ。」
背後から鈴香が、キュっと雪を踏みしめる音が聴こえた。
ラのフラット。
その靴音を引き金に、大好きだった香穂子のヴァイオリンが耳の奥でまた鳴り始めた。
清冽で染み入るような、あの高潔な音が。
記憶の中の甘い旋律に胸がかき乱されるのは、鈴香が来てくれたからだと加地には分かっている。
「私がメールに気がつかなかったら、ずっとここにいるつもりだったの?」
声色には嘲笑の色はない。
ただ不思議そうな、そしてどこか慈しむような声。
彼女は黙ったままの加地には構わずまた一歩足を進めた。
そのまま、ベンチの背にもたれるように座っている加地の髪の毛に積もった雪を、遠慮がちにハンカチではたき落とし始める。
最初は割れ物を扱うような慎重な手つきだったのに、すっかり冷えて固まった雪はなかなか手強いらしく徐々に指の力が強くなる。
黙ってされるがままだった加地も、流石に抗議の声を上げた。
「痛いよ、鈴香さん。」
「だめだ、すっかり濡れちゃってる。」
呆れたようなため息を吐いて、そのまま細い指でやんわり加地の頬を押す。
いつもは見上げている綺麗で優しげな顔立ちが、鈴香の目線の下にあった。
「つっめたぁ。」
微かに笑った加地は、コートに突っ込んでいた両手を出し、ゆっくり鈴香の指に自分の手を重ねた。
「慰めてくれるの?」
「そうじゃないけど・・・・・。」と鈴香も何故か可笑しそうに、声に笑いを含ませた。
「とうとう失恋しちゃったの?」
加地はその実直な問いかけに、大きなため息を一つ吐くと勢いよくベンチから立ち上がった。
急に手の届かなくなってしまった同級生を、鈴香は名残惜しげに見上げた。
加地は、どうしようか俊巡するように視線をさまよわせ、
とりあえず濡れてしまった前髪をクシャリとかきあげた。
「じゃあ、理由を教えたら慰めてくれる?」
「うん。・・・・寒いから、ここじゃ嫌だけど。」
もし彼女が来てくれなかったら、ずっとここにいて風邪を引いたって構わない、などと思っていた加地だったが、
ゆっくりとそう言う鈴香の口元が、寒さで小刻みに震えているのを見て一気に現実に引き戻された。
「ごめん。でも、どうしてコートを着てこなかったの? とりあえず暖かいところに移動しないと。」
口早に続ける加地に、鈴香は 『屋上で傷心中。雪が綺麗だよ。』なんてメール、飛び降り予告かと思ったわ!というツッコミを心の奥に飲み込んだ。
初恋
鈴香は同じクラスの女の子だった。
「太宰や中原中也が好きだ」と自己紹介した加地に、「どんな所が好きなの?」と心底不思議そうに
話しかけてきたのが、鈴香だった。
どうして転校? 彼女はいる? 部活には入るの?
そんな女の子たちの質問は予想済みだったが、鈴香のまっすぐな眼差しから、その質問が加地の気を惹くためだけの方便ではない、とすぐに知れた。
話を聞いてみると、彼女は太宰が苦手らしかった。
「逆に聞くけど、どんなところが嫌いなの?」
加地は、それでも話しかけてきた鈴香に興味が沸き、思わずそう尋ねていた。
「・・・・・背徳的なところ。」
唇を尖らせてそう不満げに答えた彼女の表情が、いかにも潔癖な少女のもので。
加地は思わず笑い声を上げていた。
まだ誰かを本気で好きになったことはなさそうだけれど。
もし彼女が恋愛をするならばそれは、常に陽の差す明るい方を向いていて。
白か黒かでキチンと分けられるものなのだろう。
笑った加地を怒るかと思えば、鈴香は照れくさそうに顔をしかめて一緒に笑った。
その時初めて、可愛いな、と思った。
それから、時間が合えば一緒にお昼を食べたり、放課後の図書館で偶然一緒になったり。
香穂子を除けば、加地がこの学校の中で一番親しくしている女友達かもしれない。
加地のことを必要以上に過大評価せず、普通に対応してくれるところも気に入っている点の一つだった。
「かっこいい」「何でもできる」
そんな評価や黄色い声援は、加地が幼い頃から受けてきたもので。
音楽に深い挫折を味わってからというもの、わずらわしくすら感じる時さえあった。
―――― 僕の表面だけを見て、どうしてそう夢中になれるのか。
呆れたような気持ちになることもあったが、香穂子に出会ってからというもの、彼女達の想いも少しは理解できるようになった。
一目惚れ、というより、一音惚れ。
自分が喉から手が出るほど欲しかった理想の音を奏でるヴァイオリニスト。
それが同い年の愛くるしい少女だと分かった時、加地はすでに恋に落ちていた。
だが、彼女にはすでに恋人がいて。
それが、あの月森 蓮だと分かった時、加地はあっさりと失恋してしまったのだ。
自分の気持ちを告げることすら出来なかった。
月森にはかなわない、と加地は思い込んでいたし、何より2人が一緒に並んでいるところを
見てしまえば、割り込む余地がないことは一目瞭然だった。
「どうして日野さんに好きだと言わないの?」
ある日の放課後、図書館で一心にトルストイを読みふけっている鈴香を見つけ、悪戯心が沸き起こった加地は
黙ってぴったりと隣の席に座った。
たくさん空席はあるのに、誰がわざわざ自分の隣に?
驚く鈴香の顔を楽しみに、そおっと椅子を引いたのに、返ってきたのはその一言だった。
「・・・・・僕だっていつから気がついてたの?」
心底驚いたのは加地の方だった。
鈴香は普通科の制服のポケットを探り、綺麗な千代紙を取り出すと読みかけの本のページに丁寧にそれを
挟み込んだ。
「加地くんって加地くんの匂いがするから、すぐに分かるもん。」
もしや臭いのだろうか。
加地が慌てて自分の制服の袖に鼻を当てようとすると、鈴香は目を丸くして、それからプッと噴き出した。
「違う、違う、いい匂いなの。・・・・えと、ほら、こんな感じで、」
そのまま、白い頬を加地の首筋に寄せてくる。
自然と加地の視線は、彼女のたおやかな首筋に落ちるつややかな後れ毛に引き寄せられた。
鈴香が大きく息を吸い込むと、軽い吐息が加地の耳をくすぐった。
「何だろう、石鹸? みたいな、いい匂い。」
無防備に男を煽る真似をするものじゃないよ。
たしなめようと一旦は思ったものの、得意げに鼻をうごめかす無邪気な笑顔を見ていたら
肩からフッと力が抜けた。
「日野さんを困らせたくないからだよ。」
さっきの質問を思い出し、小声でそれに答えると、鈴香の表情は不満げなものに早変わりした。
「それって言い訳みたい。」
本当に好きなら、当たって砕けろ。
鈴香の顔にはそうはっきり書いてある。
「月森だっているし。」
加地は、胸の痛みに気づかぬ振りをしながら、わざとらしく指折り数えた。
「実際、日野さんは僕のことを友人としか思っていない。」
「そんなのこの先分からない。可能性だったらいくらでもあるはずじゃない?」
鈴香はぴったりと加地の眼に自分の視線を合わせ、かすかにその眼を細めた。
彼女が心引かれる命題に突き当たった時に見せるこの表情。
加地は前日に読んだ海外ミステリーの『灰色の脳細胞』を不意に思い出し、身震いした。
解き明かされたくない。
このコンプレックスだらけの醜い心の澱を、彼女にだけは。
「どうして鈴香さんこそ、そんなに僕のことを気にするの?」
逆襲してやろうと加地がそう問い返した途端。
鈴香の表情はまた急変した。
血の気が引いたような青白い顔になったかと思うと、みるみるうちに頬が赤く熟れる。
加地はあっけに取られてしまった。
―――― もしや、彼女は自分のことを?
「・・・・・ずけずけ聞いてごめんなさい。」
消え入るような声でポツリと鈴香はそう謝り、加地の方を見ないように顔を背けながら席を立ってしまった。
途端に加地の周りから暖かい空気が消えてしまう。
ぽっかりとまるで壁に穴が開いて、そこから隙間風が吹いてくるような感覚。
どうかしてる。
加地は軽く頭を振って、鈴香のことを無理やり頭から追い出した。
それから加地は急に忙しくなってしまった。
学園の移転を賭けた全校を巻き込む騒動が持ち上がり、
それに香穂子が巻き込まれてしまったのだ。
やっと年末に決着がついたかと思えば、年明けにはコンミスの話が持ち上がりまたしても香穂子がそれに巻き込まれた。
理事長はよほど彼女のことが気に入ったらしい、と思いながら、加地も全力で彼女をサポートすることに決めていたのだから、他人のことは言えない。
自分に出来ることならなんでもしてあげたい、というのが嘘偽りない本心だったが、
彼女の隣に立つのが月森ではなく自分だったらいいのに・・・・という焦がれるような胸の痛みは、
気がついた時には、すっかり影をひそめてしまっていた。
「クリスマスコンサート、加地くんは誰か呼ぶの?」
放課後、練習が終わった後で笑顔で尋ねてきた香穂子の指が、しっかりと脇に立つ月森の手を握っているのを
見たときですら、幸せそうで微笑ましい、と強がりでなくそう思えた。
「そうだな。同じクラスの・・・・・。」
「ああ、鈴香ちゃんか! じゃあ、2枚ね。」
加地が名前を挙げると、香穂子はにっこり笑ってチケットを2枚渡してくれた。
「クリスマスだし、大切な人と聴きにきてくれるといいね!」
香穂子が何気なく口にしたのであろう「大切な人」という言葉に、加地は反射的に嫌悪感を抱いた。
鈴香の隣にだれか見知らぬ男が立つところを思い浮かべてしまったためだ。
いつも温和な表情の加地がいつになく鋭い表情になったのを見て、月森はそっと香穂子を背中に庇った。
⇒後編に続く